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「歴史は自分で作る」強豪校の誘い断った 元中日ドラゴンズ内野手・川相昌弘さん<2> アーカイブ「話の肖像画」 - 産経ニュース

投手だった岡山南高時代の川相昌弘さん(右)=1982年3月30日、阪神甲子園球場

2006年11月11日付の産経新聞に掲載した連載「話の肖像画」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。

《野球を始めたのは3歳のとき。野球名門校ではない岡山南高では2度、投手で甲子園に出場した》

──野球を始めたきっかけは何ですか。

川相 父が中学まで野球をやっていた影響もあると思いますが、とにかく投げたり打ったりすることが好きでした。幼稚園のとき、おもちゃの打撃マシンで遊んでいた記憶があります。小学校に入ると、近所の空き地で6年生にまじってソフトボールをやってました。小学校高学年までは体も大きかったんです。

──ガキ大将だったそうですね。

川相 (弟の康弘さんと)川相兄弟は近所でも有名でしたね。小学3年で野球チームに入りましたが、練習は週に1度くらい。だから、学校帰りにみんなに声をかけ、人数が足りないときは団地へ行って友だちを引っ張ってきて毎日やっていました。家の前でもボールの壁当てをしたり、生活の中に野球が遊びとして組み込まれていました。

──中学時代はエースで4番。主将も買って出たとか。

川相 弱いチームだったので、どうやったら勝てるんだろうと悩みながら、練習メニューを作りました。2年の秋に「主将はおれがやる」と手を挙げて、すごい数のノックをしたり…。後輩たちは泣いてましたけど、秋の岡山市の大会でベスト8に進んで、初めてあこがれの岡山県営球場で試合ができました。

──どんな選手でしたか。

川相 いろんなことをするのが好きでした。ただ打つのではなく、すきがあればセーフティーバントをするとか。作戦も自分で考えていました。当時の仲間とは現在も仲良くしていますが、あのときは付き合わされていい迷惑だったでしょうね。

──強豪校の誘いを断って岡山南高を選んだ理由は。

川相 最初は伝統校の岡山東商高に行こうと思っていたのですが、岡山南高のほうが家から近かったんです。それに、あまり甲子園に出ていない高校のほうが、自分でこれからの歴史を作れるという楽しみがありましたから。

──1年の夏からベンチ入りしていますね。

川相 そのときは初戦敗退だったので、夏休みに下半身を鍛えようと、自転車で通っていた片道4キロの通学路を走るようになりました。自分がレベルの高い投手にならないと、甲子園には行けないと思っていましたからね。ナイター設備もない公立校だったので、日が暮れたら練習は終わり。みんなと同じ練習のほかに個人練習をしないとうまくならないですから。帰宅後も、ご飯を食べた後にまた走る。2年の夏と3年の春に2度も甲子園に出場できて、本当にうれしかった。でも、当時はプロなんて手が届くものじゃないと思っていました。

(田中充)

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